見えない鮮血
真っ白い壁。清潔な白いカーテン。きちんと畳まれた毛布と白いシーツのベット。塵一つ落ちていない磨かれた綺麗な床。 だがその今は主…患者のいない部屋に入った主治医である玉藻は忌まわしいものでも見るように辺りを眺めると入り口のドアの方を振り返る。 「随分汚してしまいました」 「あぁ」 入ってきた黒い背広姿の男…鵺野は険しい顔で床や壁を見る。 床一面に、壁のそこかしこに広がる血の跡。ベットの上に残る無惨な原型を留めない得体の知れない死体。
「何ですか?」 「後始末は俺がするから着替えてこいよ」 「…そうですか? 玉藻はうっすら微笑を浮かべて鵺野の横を通って部屋を出る。返り血に赤黒く染めた白衣を翻して。
勤務時間を終えたはずの玉藻の姿を見かけた看護婦が何気なく声をかけてきた。 「えぇちょっと」 優しく綺麗に微笑む玉藻に看護婦はいつものことながら思わず頬を染める。それ以上追及することもなく会釈をして通り過ぎる。 玉藻はふとその看護婦を振り返って苦笑ともとれる笑みを浮かべた。 それはこの世のものではないから。 普通の人間には見えない闇の生き物の血だから。
不意に声がしてはっと振り返ると鵺野が訝しげにこちらを見ていた。玉藻は意味が分からないというように首を傾げた。 「終わったんですか?」 「あぁ綺麗に浄化しておいた。 「ありがとうございます」 「で、何で笑っていた?」 「そんなつもりないんですけど… ふと玉藻は気付いてさっき脱ぎ捨てた白衣を拾い上げる。 「これ」 「ん?」 「さっき片づけたあの妖怪の返り血でこんなに汚れてしまいました」 「そうだな」 「でもこの白衣をこのまま明日も着て仕事をしても誰も何もいわないでしょうね」 玉藻はくすりと笑った。今度は自覚した笑いだった。 「皆の目には清潔な染み一つ無い白衣です 「霊力のない人間に霊体の流した血は見えないからな」 「だから滑稽だなって何となく思っておかしくなったんですよ」 玉藻はふと白衣を置くと鵺野に近づき、その左手に触れた。黒い手袋に。 「ねぇ先生」 「なんだ?」 「先生は今まで数え切れないほどの妖怪や悪霊を殺したでしょう? 「もちろんだが」 「ばかばかしいと思いませんか? 「でも自分には見えるんだ なんでそんな事を聞くんだというように鵺野は玉藻の顔をじっと覗き込む。見つめ返す琥珀色の美しい瞳が妖しく煌めく。何故かぞっとした。 「でも本当はそのままでいるべきだと思いませんか? 「玉藻?」 「見える見えないじゃない… 「何がいいたいんだ?」 「さぁ?」 また妖しく玉藻は笑った。人ではなく妖怪としての笑顔だと鵺野は思った。 「私は妖怪です…本来相手を思いやったりすることのない本能のままに生きることが 「あぁ」 「でもその為に死んでいく…殺される妖怪をどう思いますか? 「………」 「別に非難してる訳ではありませんよ 再び玉藻は血まみれの白衣を取る。 「こうして血を流すのはそれが生きた証です 「玉藻…」 鵺野はどう答えていいか判らなかった。 人のような感情を示す玉藻を鵺野は、それはすばらしいことだと言いたかった。 「玉藻」 鵺野はそっと玉藻に近づくと不意にその身体を抱きしめた。 「先生?」 抵抗もなく玉藻は鵺野の腕に身を任せた。玉藻にもきっと鵺野の鼓動が聞こえているだろう。その音に差などありはしないのに、全く別のものなのだという事実は何だというのか。 何を伝えるべきか言葉に出来ないまま鵺野は玉藻を強く抱きしめた。 玉藻はそっと鵺野の背に手を回し、僅かに低い鵺野の黒髪を赤子をあやすように撫でた。
本当に触れ合うことのないその暖かさがただ切なかった。 END d
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