見えない鮮血

 

真っ白い壁。清潔な白いカーテン。きちんと畳まれた毛布と白いシーツのベット。塵一つ落ちていない磨かれた綺麗な床。
病院の病室としては申し分ない清潔な部屋だった。

だがその今は主…患者のいない部屋に入った主治医である玉藻は忌まわしいものでも見るように辺りを眺めると入り口のドアの方を振り返る。

「随分汚してしまいました」

「あぁ」

入ってきた黒い背広姿の男…鵺野は険しい顔で床や壁を見る。
他の人には清潔な何の変哲もない部屋に見えるその病室は、だがそこにいつ二人には全く違った光景が目に映っていた。

床一面に、壁のそこかしこに広がる血の跡。ベットの上に残る無惨な原型を留めない得体の知れない死体。
思わず目を背けたくなるような惨状が二人だけには見えていた。


「玉藻」

「何ですか?」

「後始末は俺がするから着替えてこいよ」

「…そうですか?
 ではお願いします」

玉藻はうっすら微笑を浮かべて鵺野の横を通って部屋を出る。返り血に赤黒く染めた白衣を翻して。

 


「玉藻先生
 何かお忘れ物ですか?」

勤務時間を終えたはずの玉藻の姿を見かけた看護婦が何気なく声をかけてきた。

「えぇちょっと」

優しく綺麗に微笑む玉藻に看護婦はいつものことながら思わず頬を染める。それ以上追及することもなく会釈をして通り過ぎる。

玉藻はふとその看護婦を振り返って苦笑ともとれる笑みを浮かべた。
彼女には見えていない。今この身に纏う白衣についた噎せるような腐臭とおびただしい血痕など。それが見えていたら悲鳴を上げて倒れるだろう。
だが誰にも見えない。この血は。

それはこの世のものではないから。

普通の人間には見えない闇の生き物の血だから。


玉藻は診察室で傍目には白くしみ一つ無い白衣を無造作に脱ぎ捨てると、本当に綺麗な白衣に着替えた。


「何笑ってるんだ?」

不意に声がしてはっと振り返ると鵺野が訝しげにこちらを見ていた。玉藻は意味が分からないというように首を傾げた。
笑っていた積もりなどないのだが。

「終わったんですか?」

「あぁ綺麗に浄化しておいた。
 次に患者が来ても霊障等の問題はないだろう」

「ありがとうございます」

「で、何で笑っていた?」

「そんなつもりないんですけど…
 あぁ」

ふと玉藻は気付いてさっき脱ぎ捨てた白衣を拾い上げる。

「これ」

「ん?」

「さっき片づけたあの妖怪の返り血でこんなに汚れてしまいました」

「そうだな」

「でもこの白衣をこのまま明日も着て仕事をしても誰も何もいわないでしょうね」

玉藻はくすりと笑った。今度は自覚した笑いだった。

「皆の目には清潔な染み一つ無い白衣です
 腐臭もしない…今朝洗ったばかりの白衣ですから」

「霊力のない人間に霊体の流した血は見えないからな」

「だから滑稽だなって何となく思っておかしくなったんですよ」

玉藻はふと白衣を置くと鵺野に近づき、その左手に触れた。黒い手袋に。
触れることは出来るがこの下に鵺野の手はない。鬼との戦いで失われ今そこにあるのは封じた鬼の手だ。

「ねぇ先生」

「なんだ?」

「先生は今まで数え切れないほどの妖怪や悪霊を殺したでしょう?
 その度に見えない返り血を沢山浴びて
 でも人にそれが見えなくても綺麗に洗い流したでしょう」

「もちろんだが」

「ばかばかしいと思いませんか?
 人には見えないのに」

「でも自分には見えるんだ
 嫌だろ?」

なんでそんな事を聞くんだというように鵺野は玉藻の顔をじっと覗き込む。見つめ返す琥珀色の美しい瞳が妖しく煌めく。何故かぞっとした。

「でも本当はそのままでいるべきだと思いませんか?
 自分は血を纏う忌まわしい存在だということを忘れないために」

「玉藻?」

「見える見えないじゃない…
 あなたは人間だからわからないかもしれないけど私にとっては…
 人の血も妖怪の血も同じです…当たり前にそこにある…」

「何がいいたいんだ?」

「さぁ?」

また妖しく玉藻は笑った。人ではなく妖怪としての笑顔だと鵺野は思った。

「私は妖怪です…本来相手を思いやったりすることのない本能のままに生きることが
 当たり前の存在です
 同族ならともかく他の種族の妖怪が殺されようと、殺そうと何とも思わない
 でも人は違うでしょう? 
 誰かを助けようとする…誰かを救おうと戦ったりする」

「あぁ」

「でもその為に死んでいく…殺される妖怪をどう思いますか?
 知性があり、私やあの雪女のように人のためになろうとすることが出来るものもいる
 そういう相手ならあなたも説得しようと思うでしょう
 だけどただ今日殺した妖怪のように本能に従うだけの意志疎通ができない輩なら
 あなたでもためらいなく殺すでしょう
 そして罪悪感など持たないでしょう」

「………」

「別に非難してる訳ではありませんよ
 それは自然の摂理です
 弱肉強食の自然調和の一環です
 けれど」

再び玉藻は血まみれの白衣を取る。

「こうして血を流すのはそれが生きた証です
 ただ我々に害なすものだと思われただけで殺されたもの
 だからただの汚れのように洗い流して無かったことにすることが…
 残酷な事だと思っただけです
 そしてそんなこと思った自分がおかしかったんですよ」

「玉藻…」

鵺野はどう答えていいか判らなかった。
さっき玉藻が殺した妖怪は、人の生気を吸うだけしか能がない低級な妖怪でたまたま、玉藻が担当した患者に取り憑いた。丁度手術後の体力の落ちている時に取り憑かれ、あっという間に患者は衰弱して死んだ。僅かな隙に患者を「殺された」玉藻はためらい無くその妖怪を殺した。それを目撃した鵺野はその行為に何も疑問を抱かなかった。既に患者は亡くなったがその妖怪を野放しにするのは又犠牲者を増やすことだから鵺野でもすぐそれを殺しただろう。人間側からみれば何の疑問もない行為だ。
だが妖怪側からみたら?
ただ本能のまま、たまたまそこにいた「餌」に食いついただけのそいつに罪などあるのか?
きっと人間の倫理や価値観を取り除けばそんなものは存在しないのだ。
だが多分、そいつが殺されることも調和の一つだとも言える。自分が生きるため何かを殺すことなら。しかし玉藻にとってそいつは本来全く関係ない存在で、人を助ける義務など無い妖狐の彼がそれを殺すことは無意味な殺戮だともいえるのだ。
だからそれに玉藻は人間的な罪悪感を覚え、次に妖怪である自分には意味のないことだと気付いて己の考えが滑稽に思えたのだろう。

人のような感情を示す玉藻を鵺野は、それはすばらしいことだと言いたかった。
だが人には見えない血塗れの白衣を抱えて自嘲するような笑みを浮かべる玉藻に何を言っていいか判らなかった。

「玉藻」

鵺野はそっと玉藻に近づくと不意にその身体を抱きしめた。
自分より背は高いが細い身体からは微かな鼓動と確かな暖かさが伝わってくる。人間と何も変わらないそれは、だが仮初めの偽りの肉体なのだ。

「先生?」

抵抗もなく玉藻は鵺野の腕に身を任せた。玉藻にもきっと鵺野の鼓動が聞こえているだろう。その音に差などありはしないのに、全く別のものなのだという事実は何だというのか。

何を伝えるべきか言葉に出来ないまま鵺野は玉藻を強く抱きしめた。

玉藻はそっと鵺野の背に手を回し、僅かに低い鵺野の黒髪を赤子をあやすように撫でた。

 

本当に触れ合うことのないその暖かさがただ切なかった。

END